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歴史・時代

東京探偵小町 第二十八話「牙持つ人」 <1>

   

「それは本当ですか、道源寺警部!」
「あんたらに、嘘など言ってどうするね。これは亡き永原くんが、じかに聞かせてくれた話だ」

小説版『東京探偵小町
第八部 ―彷徨編―

Illustration:Dite

 

 名を呼ばれ、リヒトはかすかに顔を上げた。だが、書斎の椅子に深々と納まったリヒトの主君は、何も言わず、身動きすらせずに言葉をしまい込んだ。
 名を呼ばれた以上、用向きを尋ねたほうが良いのだろうかと思うものの、この主君の前では沈黙こそが金である。みずから口を開いて良い結果を招いたことなど、数度しかない。多くは不興を買って痛い目を見るか、「それでねだっているつもりか?」とからかわれ、欲望のはけ口にされる。それを思い出し、リヒトもまた口を閉ざした。
 帝大医学博士にして裁判医「逸見晃彦」の皮を被ったリヒトの主君は、ひどく気まぐれな性質だった。逸見の使い魔であり、従僕でもあるリヒトは、その気まぐれな命令を果たすことが務めだった。命じられれば、身の回りの世話も夜伽も、時には他者の命を奪うことすらする。
 こうして主君の書斎に控えているのは、そうするようにと命じられたからにほかならないが、近侍以上の命令が今のところ何もない。「逸見晃彦」を装うための激務を縫い、一昨日から裁判医としての出張を装って横濱に出向いてきたリヒトの主君は、今は無言で闇に身を任せていた。
(…………雨……良く降る)
 主君と同じように闇に溶けながら、リヒトは自分から行動を起こすこともできず、ただ彫像のように立ち尽くしていた。そうして暗闇のなかで、ひとり雨の音を聞いていた。
(晃彦兄さん…………)
 あの篠突く雨の夜。
 いつも、どんなときも一緒だった輝彦が、別れの挨拶もないまま「どこか遠いところ」へ行ってしまった直後。誰よりも深く敬愛し、父とも兄とも慕っていた晃彦までもが遠くへ行くのだと知ったとき、リヒトは食欲を失くしてしまうほどに気落ちした。
 寂しさを胸に出戻った軍犬育成所で、リヒトは晃彦の「後で必ず迎えに来る」という言葉ひとつを信じて、味気ない毎日を過ごしていた。晃彦の言った「後で」というのはいつなのか、明日なのか、明後日なのか。犬舎の外から聞こえる人間の足音に耳を澄ませる、そんな夜を何度送ったことだろう。
 いつしか季節は過ぎ、雨の音以外は何も聞こえない夜に、ついに晃彦は帰ってきた。「晃彦の姿をした者」が、リヒトを迎えにやってきたのである。
(あのときに覚えた違和感は、正しかった。姿かたちは同じでも、これは晃彦兄さんでは)
「ほう、主君に向かって『これ』呼ばわりか」
 革張りの椅子に腰掛け、うたた寝でもしているかのように黙していた逸見がふいに言葉を発し、リヒトがビクリと体を震わせる。声にした覚えなどないのに、なぜ思考が伝わったのだろうと考え、リヒトは自身が「使い魔」であることを思い出した。
 その気になれば、主君は「使い魔の目」を通して、自分の側にはない物を見ることもできるのだ。考えを読み取りなど造作もないことであり、それはリヒトも良く承知しているはずだった。
「申し訳ありません。お許し下さい、兄上」
「割に賢い犬種だと聞いていたが、貴様は馬鹿のひとつ覚えだな。その言葉は聞き飽きた」
「申し訳……ありません」
 月のない雨の夜、洋灯のひとつも灯さない書斎はどこもかしこも墨を流したように暗いが、地下世界に籍を置く主従の目には、闇は闇として映らない。そんな黒のただなかで、逸見は使い魔の少年を殴ることも蹴り飛ばすこともなく、ただ酒を命じた。

 

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