月に叢雲、花には嵐。
色即是空、空即是色。
幕末の偉人勝海舟は、時代が変わって明治になっても忙しい日々が続いていた。
職を失った徳川の遺臣たちを何とかしなければならない、という思いが彼を動かしていたのである。
そんな中にも、ぽっかりと時間が空くときがあった。
その日――、勝海舟は、ある商家の部屋に座ってのんびりと奥庭を眺めていた。
大きな藤棚から藤の花が垂れ下がっている。
眠気を誘うような昼下がりであった。
実際、彼の膝の上では、三毛猫が香箱を作って寝ている。
「御前、お茶が入りましたよ」
お静が部屋へ入ってきた。
際だった美形で、生半可な羽織芸者では太刀打ちできないような気っ風の良さを持っている。
「ありがとう。おい、これ、何とかならんかね」
「あら、猫ちゃん、ここにいたのね。気持ちよさそう」
「もう昼からずっとこのままだ。いい加減、足が痺れてきたよ」
お静は、からかうような顔つきでいった。
「御一新のとき、薩摩や長州を相手にして一歩も引かなかったお方が、猫に音を上げるんですか」
「ふん、うるさい。お静さんは猫が好きだのう」
「可愛いじゃありませんか。それに、猫がいれば鼠はいなくなるし」
「猫は好きだが鼠は嫌いかね?」
「ええ、苦手ですね。
子供の頃ですけれど、水瓶の間から鼠が出てきたのと鉢合わせして、きゃ、って大声を出したことがあるんです。
それを聞いた頭領が、お嬢さん、あっしにまかせておくんなさい、といって石見銀山を仕掛けて、鼠を殺してくれたんです。
頭領、自慢げに死んだ鼠をあたしに見せるんですよ。
そりゃ、鼠は嫌いですけれど、それを殺してしまうのも可哀想だし……。
それ以来、鼠を寄せ付けないように、猫を飼うようになって、猫の可愛さが好きになったんです」
「そいつは知らなかった」
「鼠の死骸を見て可哀想に思うなんて、御前にしてみれば、おかしいでしょうね。
あの動乱の時代を生きてきた方だから」
「ああ、多くの人が死ぬのを見てきたよ。
だがなぁ、人であろうが小さな動物であろうが、死は悲しいもんだ。
こんな話がある……」
* * *
昔々、戦で世の中が麻のごとく乱れていた頃のことである。
下野の地方に、東郷鉄太郎という名前の侍大将がいた。
六尺を超える上背で、膂力は十人力といわれた剛の者であった。
いつも真っ先に敵陣へ切り込み、獅子奮迅の働きをするのである。
味方にとってはこれほど頼りになる者はなく、敵からは鬼神のように恐れられる、侍の中の侍であった。