たいへん! 直くんが出て行っちゃった!
彼、今どうしてるのかしら。心配だけど、タカはなんにもするなっていうのよ。
どうして男ってこうなのかしら。まったく!
『直くんと出奔』どうぞ見てやって! まったくもう!
直くんと出奔
高橋 直という青年の人生はけったいなものであった。
物心ついたときに母はなく、無口で厳しい家具職人の父だけがあった。
母のことは知らない。
狭い近所の噂話によれば、町にふらりと寄った流しの歌手だったそうだ。顔がいいだけの泣かず飛ばずだったのだろう。月世野のスナックを酔いどれのようにふらふら回りながら、生家の近所にもやってきたらしい。それを父が見初めて、口説き落として一緒になったという。だが、生来の流れ者の性分が、母を田舎町にとどめておくことはなかった。直を産むやいなや、母は誰かに呼ばれたようにいなくなった。それっきり、帰ってこない。命名は父がしたそうだ。素直な子になるようにと願って。以来、二十数年。直は母がいない引け目と、その母譲りの柳の花を思わせるような見る者の目を引かずにはおれない妖艶さを持って生きてきた。
とりわけその容姿には目を見張るものがあり、細い肢体と相まって女よりも女らしかった。そのせいでいじめの格好の標的となり、ついでとばかりに母なし子と罵られた。
直の人生はその美貌によってつねに損なわれてきたのだった。
しかし、そんな彼にも救いとも呼べるものが三つあった。
ひとつは父方の祖母。
祖母は直の異様な美しさを謗ることも、罵ることもなくまったく息子を省みない父にかわって一切の面倒を見てくれた。だが、高校二年のときに亡くなった。
もう一つが文具。
月世野小学校学区でなかったにも関わらず、直は月世野小学校に通った。父、もしくは祖母の配慮だろう。近所の噂話が届かないところで直は万年筆を調整する福永文具店店主・福永栄治と出会う。毎日足繁く通って万年筆に魅了された。紙をこするペン先。にじむインク。インクを吸い込ませたときの汚れた指先。栄治氏が指先と道具を閃かせるごとにあっという間に直っていく万年筆たち。栄治氏に教わり、万年筆の基礎を叩き込んでもらった。父に頼み込んで買ってもらった万年筆は、今でも日々、進化し続けている。
最後のひとつがこの、モモヨ文具店と店主・モモヨさん。
モモヨさんは栄治氏の娘で、直の力量を見て引き抜いてくれた人だった。なにより文具に対する愛情と熱意がすさまじかった。教えを乞ううちに、モモヨさんが自分を導いてくれる母のような存在に思えてならなくなった。職場に男女の思いは持ち込むまい。もとよりそのつもりはない。そう決めていたにも関わらず、気づくと直はぐいぐいとモモヨさんの懐に入り込んでいた。
直のなかの幼い少年が、僕を愛してくれと絶叫しているのに耳をふさぎ続けるのは辛かった。
(でもそれも今日で終わりだ……)
すべてが筒抜けの店におりがみの手紙を置いてきた直は、ロードバイクを走らせて、月世野から逃げた。