諒が以前働いていた結婚式場で、諒をいじめていた人物。
それが先日店に来た女性客の、斉藤美佐子だった。
諒は美佐子との過去をスタッフに話した。
優しい言葉をかけてくれるもの。
毒を吐きつつも、しっかりと褒めてくれるもの。
そして今後のことを見つめてくれるマスターに、諒はお礼の気持ちと笑顔で応えた。
諒がピアノフォルテで働く前、彼は工藤が運営する結婚式場のブライダルピアニストとして働いていた。
当時からやはりミスが多く、工藤の式場で働いていた頃は、接客にはあまり入らずにひたすらにピアノを弾いていた。
人には短所があれば、長所もある。
諒は接客が苦手でおっちょこちょいな面があるが、ピアノが上手で素直な性格である。
何より諒がたまに見せる、どこか力の抜けた笑顔が工藤はどうしようもなく好きだった。
工藤が諒の過去を知るには、それなりに時間がかかった。
なかなか自分のことを話してくれない諒。
幼い子どもが二人もいるのに、履歴書欄には妻の名前が表記されていない。
諒の性格上、子どもだけを引き取り妻と別れたということは考えにくい。
最初こそ変わった子だと思ったが、徐々に自分に心を開き過去を語り始めた諒が、工藤はどうしようもなくかわいく思えてきた。
工藤自身は結婚していない。
結婚そのものに興味がなかった。
女性が嫌いなわけではないが、女性と交際していなければ寂しいかと問われれば全くそうではない。
一人でいる方が楽だし、そもそも子ども嫌いでもある。
子育てなんてできる自信もなかったし、他人である女性と一つ屋根の下で生活することそのものが工藤は考えられなかった。
だが諒と接していると、知らず知らずのうちに諒が自分の息子のように思えてきてしまった。
こんなに頑張っている子を、このまま不幸の中に置いておくわけにはいかない。
諒には幸せになってほしい。
そんな思いが、徐々に工藤の中で大きくなっていった。
えこひいきはしたくないし、する気もない。
本来ひいきなんて大嫌いだった。
だが、ふと気が付けば諒をどこかひいきしていたし、そうなるまでに一年と経たなかった。
子どもを祖母に預けることに申し訳なさがあるから、仕事が終わったらとにかく早く帰るという旨のことを話していた諒。
冬の寒い日、仕事が休みの日に子ども連れで構わないから食事に行こうと誘ったことがある。
当時双子は4歳だった。
子どもの食べられるものがある場所をと、店を探して車で迎えに行き、中古ではあるが妹からチャイルドシートを譲り受けて二つのせて諒と子どもたちを迎えに行った。
店までリサーチしたのに、子どもたちが選んだのは屋台のおでん屋。
寒空の下、四人で並んで熱いおでんを食べた。
最初は警戒して諒の後ろに引っ込んでいた子どもたちも、だんだんと工藤に心を開いてきて。
「おじちゃん、おでん美味しいね!」
「また行こうね!」
そういって鼻も頬っぺたも真っ赤にして練り物を食べる子どもたちを見ていたら、子どもたちがどうしようもなくかわいく見えた。
「おいしいか?小野寺。」
猫舌らしくなかなか食が進まない諒を気遣って声をかけると、諒は大根を箸で持ってこちらを見て。
「すごく!おいしいです!」
初めて諒がまん面の笑みを工藤に見せた瞬間だった。
──この子がこんなに笑えるなら、なんだってしてあげたい。
幼すぎた、あどけなすぎた無防備な笑顔。
工藤に諒のそれは、とても深い思い出となった。
諒のピアノが軌道に乗って少し経った頃。
知り合いのつてで一人の女性が紹介された。
彼女の名前は、斉藤美佐子(さいとうみさこ)。
ピアニストとして雇ってほしいと頼まれた。
断りたかったが、そうもいかない相手だった。
諒がずっとピアノを弾き続けているよりも、彼女と交代で弾いた方が諒の疲労もたまらないだろう。
そんな思いもあって、工藤は彼女を雇ったのだった。