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恋愛 / ラブ・ストーリー

オクターヴ上げて奏でる[1] ポロネーズ

   2017年12月11日  

 あの日から僕の頭の中は、クラシックのコンサートホールがすっぽりと入っているように、彼女の演奏が鳴り響いていた。
 ショパンの《英雄ポロネーズ》この曲だけは題名まで覚えた。
 イヤホンを通して聴く流行りの曲は、今の気分にそぐわない。クラシックのピアノ曲に心を打たれたことが、自分は他の高校生より高貴な人間の気持ちになる。
 いつもと変わらぬ朝を迎えただけなのに、何故か今日は新鮮な朝に思えた。
 赤羽駅から電車に乗った僕は、田端駅で相原奏子が乗ってこないかと待ちわびていた。
 電車が田端駅に近づくと、いつもより後部車両の列に、相原奏子が並んでいるのが見えた。少し違う風貌に見えたから見間違えに思ったが、自分が乗っている車両の列に彼女が並んでいないのを確かめると、停車するや否や、飛び出して彼女が並ぶ列まで走った。
 三十メートルも無い距離を全力で走ると、降りる乗客を待っている彼女の横顔が見える。昨日までは胸元まで伸びていたソバージュヘア―がバッサリと切られていて、ナチュラルボブのヘアースタイルが人違いに思わせた。
 僕が息を切らしながら声を掛けると、彼女は驚いた表情でこちらを見た。束ねていない髪に惑わされたが、やはり相原奏子だ。
「おはよう、……いゃ、おはようございます。」
 奏子さんは『一体、何?』といった表情で、「おはようございます。……」と、僕の言葉に応じていた。
 押し込まれた満員電車の中で左右に肩を動かしている奏子さんの姿が、僕から距離を取ろうとしているように見える。
「昨日、行きましたよ、学園祭。凄かったですね。」
 多分、何のことだか分かっているのに、「何がですか?……」と誤魔化す奏子さんに、僕が「あれ、……ショパンの《英雄ポロネーズ》」と、曲名を口にしたら、それに驚いた顔をしている。
「いや、崇に誘われて、……ピアノの生演奏なんて昨日初めて聴いたんですけど、凄い良かったです。いや、あれは感動しました。後ろのおばちゃんなんて、天才っていっていましたよ。」
 奏子さんは照れ臭そうに俯いて「それは、どうも。……」と言っている。
 どさくさ紛れにも思えたが、何せ上野駅に着くまでには時間が無いものだから、僕は電話番号を教えてくれとお願いすると、家の電話番号なんか教えられないと、あっさり断られた。「違う、PHS」と訊ねれば、そんなものは持っていないとのこと。
「じゃぁ、ポケベルの番号教えて下さい。」
「しつこいですね、第一あなたがポケベルを持っていないのに、教えてどうするんですか。……」
 奏子さんはそう言って、上野駅で降りて行った。この時、PHSを買った時に浮かれていた自分を思い出して腹が立った。
 
 不思議な気持ちだった。奏子さんに突っ慳貪にされて、距離を置かれていることが切なくてたまらなかった。
 彼女のことが好きなのかと思えば、そんなはずはない。顔だって美人のわけでもないし、性格だって現時点で良い印象はない。
 ただ、彼女のピアノを聴いて胸を打たれたことだけは確かだ。そして今のような態度とは相反して、微笑みながらピアノを弾いている彼女に惹かれていた。

 教室では、ずっとぼんやりした気持ちだった。奏子さんのピアノを弾いている顔を、ずっと思い浮かべていた。
 崇には、あまり根掘り葉掘り聞いて、彼女に興味を持ったと思われるのが恥ずかしいから、「奏子さんって、そんなにピアノ凄いのか?」と、それだけ訊ねた。
「ああ、もう家柄が、うちなんかと比べ物にならないぜ。母親は世界を股にかけたオペラ歌手の小峰百合子で、父親も一流ピアニストの相原省吾だ。」
 その名を出されても初めて聞く名前だから、『世界を股にかけた』とか『一流』という言葉でしか、凄さを感じられない。
「カナコさんなんて、生まれた時から音楽の道を歩むことが決まっていたのさ。でもなぁ、……」
「でもなぁ?」
 言葉に詰まった様子の崇は、僕の表情を伺ってから話を続けた。
「二年前に母親は亡くなってるんだよ。夫婦でクリスマス・イヴにコンサートをしたんだ。その時にステージの照明が、母親に落下したんだよ。頭打って即死。それを助けようとした父親も、右手を潰されてピアノは弾けなくなったんだ。」
 話を聞かされても、ただ言葉を失うだけだった。奏子さんは会場にいて、その現場を目の当たりにしたこと。一時はピアノを弾くことができなくなっていたこと。父親からの願いで再び弾き始めたことを聞くと、『天才』と呼ばれていた彼女が、何気なく生きている僕とは、背負っているものの違いを感じた。
 奏子さんは、それでも微笑みながら楽しそうにピアノを弾いていたと思えば、遣る瀬無い気持ちになる。……あの日、『普通』と言った言葉に、過敏になっていたのを思い出した。奏子さんにとっては、父親がピアノを弾いていて、母親が歌っていること、それが普通なのだろう。
 そんな普通の生活が、ある日突然に無くなってしまった。そんな奏子さんを僕は、『特殊』だと言った。つじつまを合わせれば、酷いことを言ってしまったと思う。
 奏子さんの弾くピアノに込められた心の傷を考えると、胸が締め付けられる思いになった。

 

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