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恋愛 / ラブ・ストーリー

オクターヴ上げて奏でる[5] ラ・カンパネラ

   2018年1月5日  

 その日の晩、私は家で、ひたすらに《ラ・カンパネラ》を弾き続けた。
 しかし、私の出した答えは、先生の言っていたことに相反する答えだ。鐘が鳴るのを待つのではない。彼が鳴らした鐘を、止ますことなく鳴らし続けるのだ、……と。
 ピアノ室のドアをノックする音が聞こえ、私が手を止めると、「入っていいかい?」と、父の声が聞こえた。
 父はドアを開けると、私の顔を見て小さな笑みを見せた。
 昨日の言い争いの続きでもするのかと思っていると、「決めたのか、コンクールの曲。」と、訊いて来る。
 私は、まだ昨日の蟠りが残っているから、頷くだけの返事をした。
 すると父は、「《ラ・カンパネラ》か、……少し、奏子には早くないかい?」と、続けて訊いてきた。

「弾けるよ、……彼のためなら。……」

「……そうかい、じゃあ頑張って。」
 父の言葉に空いた間には、親の思いと優しさが感じられた。部屋から出ていく後ろ姿は、私が誇りに思う父の背中だった。

 心の中の霧が少し晴れた気持ちになった私は、彰君のPHSに電話を掛けた。今までは受け身だった私も、今度は自分が切り開かなければ、この関係に終わりを告げることになってしまう。
 考えてみれば、ここまで自分の意思で動くことは初めてだ。
 
 野良猫の死体を見たことがある。それは家の前で、疲れ切って寝てしまったような姿だった。
 その野良猫は、いつも家の前をウロウロしていた。まだ小さな虎柄の野良猫。
 その仕草は愛くるしく、通学前の私に寄って来るが、癖になってはいけないと思って餌を与えたりはしなかった。
「ごめんね。……」
 小さな猫を追い払うまねもできず、いつも撫でて謝るだけ。
 その愛くるしさを受け止めずにいると、ある日、その猫は家の前で横たわっていた。
 寝ているだけと思って触ってみると、固くなった体の感触に驚いて悲鳴を上げた。
 驚いて家の中から出てきた父は、「あぁ、いつもの猫、かわいそうに。……最後に、奏子に会いたかったのかな。」と、呟いた。
 そんな訳がない。猫は誰にも分からないように、ひっそり死ぬと聞いたことがある。
 きっとこの猫は、いつか私が餌をくれる日が来ると信じていたんだ。そして、そのまま力尽きた。……
 彼を野良猫に例えたら、どんな顔をするだろうか。……けれど、今の私がしていることは、その時の猫にしたことと同じ仕打ちだ。
 
 受話器から、呼び出し音が聴こえると、すぐに彰君の声に変った。
「もしもし、昨日はごめんね。……」
「いや、謝るのは僕の方ですよ、変なことに巻き込んじゃって。……」
 彰君の声が、いつもより弱弱しく聞こえた。きっと、父が言ったことを気にしてるのだろう。
『お父さんの言ったことは、気にしないで。私は彰君が好きだから。』
 そんな、恋愛ドラマのようなセリフを、私には、とても言えない。けれど、思いを伝えずに彼との関係が途絶えてしまえば、私はきっと、いつまでと期日の無い後悔をするだろう。
「あの、……昨日、話してたことなんですけど。……」
 彰君の声を聞いて、私の頭の中は感情が暴れ出したように慌てめいた。
 どうしよう!これで別れを告げられたら、必ず私は、「そう。……」と、心にもないことを言うに決まっている。そんな自分の性格が、他人のことを見ているように分かる。
 これ以上、彼に話を続けさせてはだめだ。……気持ちを伝えるなら、彼のペースに巻き込まれると、私は切り返す術が無いにきまっている。
「もう一度だけ、言うからね。……モーツァルトの妻は、コンスタンツェ・モーツァルト。ショパンの彼女は、ジョルジュ・サンド。マリア・シマノフスカの夫は、ユゼフ・シマノフスキ。みんな、そうやって音楽史に名前が残るの。……あなたは大丈夫?」
 彼の話に水を差してしまったのか、受話器から声が聞こえなくなった。結局、私には、このような言い方しかできないのを、この沈黙の間で後悔している。

 

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