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恋愛 / ラブ・ストーリー

オクターヴ上げて奏でる[5] ラ・カンパネラ

   2018年1月5日  

 幸せの真っ只中、……穢れた過去が頭を過ると、私の目は暗闇を求めていた。彼の姿が目の前にあることが、悪夢でしかない。
何故、再びこの男を目の当たりにしなければならないのか。……硝子の割れる音が、頭の中で鳴り響く。
 耳元で囁く悪魔がいる。その声は『思い出せ、思い出せ。』と、繰り返しながら、薄汚い言葉を呟いている。
「ごめん、いきなり連れてきて悪かった。彼が奏子ちゃんにしたことを聞いて、謝らせたいと思っただけなんだ。」
『ほら、思い出したか。こいつに抱かれたんだよ。』
「そんなのいいです。だから、私の前から消えて下さい。」
『消えないよ、ずっと。』
「奏子ちゃん、彼にも、けじめをつけさせたいんだ。話させてやってくれ。」
『思い出せ。』
「いいから、早く消えて下さい。」
『だから、消えないよ。』
「早く消えてよ!」
 悪魔は囁き続けていた。私の心が、もがけばもがくほど、ケタケタと笑う声が聞こえてくる。
あの時の私は、ここまで考えていなかった。けれど、あの時はなくても、今、生まれた感情が一つある。
 悔しい、……悔しい、……悔しい。……愛する人に、私の体を、穢れの無い私を捧げれないことが、悔しい。……
 この男に動物のような感情で私の体を汚されたことが、悔しくて、悔しくてたまらない。
 小学生の頃、教室の後ろに置いてあった飼育籠。その中を覗いた時に見たハムスターの交尾。……あの様子が、この男と私の姿そのものなのだ。
「本当にごめんなさい。でも、あの時、奏子ちゃんの姿を見て、僕は君に惹かれたんだ。体だけが目当てだったんじゃない、この子を守りたいって思った。……だから、君のことが欲しくなった。……けれど冷静になった時に、僕は、とんでもないことをしてしまったと思って、……怖くなって、……思わず逃げてしまったんだ。」
 柳さんは土下座をしながら、幼子のように泣きわめいている。けれど、私は彼に同情することや、許すことはなく、思うことは、この人の存在そのものが私の記憶から消えてほしいと思うだけ。
「彼から話を聞いて、君には謝らせなくてはいけないと思ったんだ。彼のしたことは謝って済むことではない。でも、きちんと謝らせなければ、君は傷ついたままになってしまうと思ったんだ。」
 先生の言葉を聞いていると、人が我が身を守ろうとする心理を知らされる。
 謝って消えるのは私の心の傷ではなく、この男の罪への意識だろう。
『苦しい、苦しい。』と、思っていた心の闇が、謝っただけで満足して、消えてしまうだけ。
 そして、時が過ぎると、私はただ、この男の経験の一人になる。男が話す、『何人と寝たことがある。』なんて、つまらぬ話題の一人に数えられる。
 その一人に数えられることが忌々しくてならない。私が大切な人と過ごす時、この世のどこかに、服を脱いだ私の姿を知る人間が生きていると思えば、身の毛がよだつことであり、この男の謝罪など砕け散った花瓶を償うようなもの。
「いいから消えてよ!」
 ピアノの鍵盤を力任せに叩き付けた。生まれて初めて鳴らした不協和音が部屋中に鳴り響くと、音が耳の中に吸い込まれ、体の中でも響いている。
「ごめん、悪かった!だから、あまり興奮しないで。」
 私の肩を掴む先生の手にすら、恐怖を覚えた。
 穢される。きっと今度は、この人にも私の体を穢されるんだ。……
 渦を巻いている。頭の中で、ぐるぐる、ぐるぐると、砂紋の渦を巻いて、その中心に私は飲み込まれてゆく。
 そこでもがき苦しむ私の姿を、二人の男が見ている。それは硝子の目をした人形のように、冷めた目の中に私の姿を映しているだけ。
 逃げなければ飲み込まれてしまう。……気が付けば私は部屋から飛び出して、がむしゃらに階段を駆け下りていた。
 外へ飛び出すと街灯の明かりがぼやけて見えた。
 人のゆく道に分かれ道があるのなら、これも私が選んだ道なのだろうか。……彼と出会うための道には、この苦行がつきものだったのか。……
 彼の声が聞きたい。今すぐ、彼の声を聞きたい。……
 そう願っていると、ポケットの中のPHSが振動しているのに気が付いた。
 神様に願いが通じたんだ!喜びの中で、ぼやけた街灯の光が、はっきりと明るく見えた。

「もしもし、さっきはごめん。」
「うん。……あのさ、……電話が切れてなくて、……今の話、聞いちゃったんだけど。……」
 
 いつか太陽が、地球を飲み込んでしまう日が来る。……幼い頃に聞いた話に、私は身を震わせたことがある。そんな日がやってくることは、きっと今と同じことなのだろう。
 
 

≪つづく≫

 

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