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伝奇ロマン

怪盗プラチナ仮面 25

   2018年1月9日  

 
「ヴァイツェネッガーさんの声が、3歳で死んだ私の魂に届いたんです。私はミュラーの実の娘じゃありません。私が本当は何者かお知りになりたい?」

 彼女の目は、「『知りたくない』とは言わせない」と語っていた。数秒の間を置いて、吾輩が「外の空気でも吸いましょうか?」と提案すると、シャルロッテは頷きもせずに立ち上がった。
 

 既に午後9時に近く、旧市街地沿いの緑地は人影もなく静まり返っている。仮設テントから20メートルほど離れたところで、シャルロッテは深呼吸をしてから、「私はクロアチアの農民の娘」と早口に言った。
 

「ミュラーには買われたも同然なんです。そしてこの日のために育てられたようなもので」

 シャルロッテは吾輩の顔を食い入るように見つめてきた。とうの昔に涙は流し終えて、固い決意だけがその瞳には残っていた。

「私のドイツ語に残っているでしょう? スラブの響きが。ヴァイツェネッガーさんの声にも同じ響きを、私は聞いてしまったんです。こんなことを申し上げるのは大変失礼でしょうけど」
「いいえ。おっしゃる通りです」

 時と場合によっては、利害を超えて正直にならねばならない。これは人間として最低限の節度であろう。

「実は私もドイツ人じゃありません。セルビア人なんです」
「やっぱり、そうなんですか」

 その日初めての、生き生きとした笑顔をシャルロッテは見せた。と同時に、目が急激に潤んで、とどめようもなく一筋の涙がこぼれ出てしまった。ハンカチを出して拭いながら、鼻声で「セルビアのどちら」と尋ねてきた。

「土地としてはハンガリーになりますね。ボイボディナのスレム」
「ほんとに?」

 一転、シャルロッテの目が輝く。

「だったら私の故郷と目と鼻の先じゃないですか!」

 子供に返ったようにはしゃぐシャルロッテに笑顔で応じながらも、無邪気に同調できなかった。思えば9カ月前、ブダペスト郊外のセンテンドレで、バナート生まれのトローネル少佐と同じような会話を交わしたのだ。そして少佐はもうこの世にいない。

「クロアチア語はセルビア語と大して変わらないらしいですけど、でも私、クロアチア語を覚えていないんです。まだ3歳だったし、ミュラーの家ではクロアチア語を使うと折檻されて、無理矢理忘れさせられてしまったの。ひどいでしょう?」

 若干逡巡してから、吾輩は答えた。

「私の家でも父はドイツ語しか使わせませんでした。生粋のセルビア人だったくせにね」
「皇帝派でいらっしゃったのね」
「ええ。でも折檻はありませんでしたし、今でもセルビア語は分かりますよ」
「うらやましい。自分が何者か分かってらっしゃる。あの銀色の仮面は戦士のしるしなんですか?」
「はい?」

 さすがに虚を突かれた。だから熱心な客には油断がならない。吾輩は認めるしかなかった。

「まあ、ちょっとした小道具ですがね」

 周りに人がいないのを確かめて、吾輩は懐から≪正帝≫を出した。新月のように大きく裂けた口や左目下の涙滴が、シャルロッテの気を引いたらしかった。

「綺麗ね。笑ってるのかしらこの顔は?」
「笑いながら泣いてるんです。ふざけた顔でしょう?」
「いいえ。素顔の涙を隠しきれなくて外に溢れ出てしまっている、そんなふうに見えます」
「そう考えれば、どこにでもいるありふれた人間の顔ですね」

 シャルロッテはかすかに笑った。

 彼女の結婚相手はイリノイ州シカゴに本拠を構える新興の合成染料会社社長で、純然たる政略結婚だった。それも相手は2度目の結婚であり、前妻との間に1男1女がいて、どちらもシャルロッテより年上らしいのだという。

「ニュルンベルク出身の移民一世なんですって。こういう状況って、いつの間にか用意されてるんですよね。どういう生活が待っているか、可笑しくなるくらいはっきりしてて……。今から小説の一本も書けそうなくらい」

 なんと自分は気楽な人生を送ってきたことか。そんな自分が、差し迫った状況では人を殺すのをためらわなかった。それが実に不思議なことに思えた。
 

 

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