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恋愛 / ラブ・ストーリー

君がいない世界なら、僕は生きていけない・20

   

 羽場戸先生に球体を返しに行くことにした。

 自宅に沙良を置いて、そしてテーブルの上の一枚の紙のことをそのままにしたままだった。

 あとでそのことについてはしっかりと対面して話すことになる。

 そのとき、スクランブル交差点で悲鳴があがった。

 俺も驚いたが、さらに上乗せして驚愕が脳裏を走った。

 ついにこの対峙、だが分が明らかに悪い。

 赤いとんがり帽子をかぶり直し、男の手にはピストルが…

 

 昼前に俺は一人で出掛けた。もとより先生のところにいくつもりだった。

 球体を返却するときがきたのだ。もう必要がない。

 羽場戸先生もそれがわかり安堵してか今ごろ研究に没頭しているだろう。クリスマスだというのに。変わらずだろうなと、ケーキくらい持って行こうと考えていた。

 俺は渋谷駅に立った。ここから数十分歩いて大学がある。とそのまえにスクランブル交差点は赤信号が灯っていた。

 昨日も来たばかりだというのに、またこうして単身足を踏み込んでいた。

 羽場戸先生の間抜けた研究熱心な顔を思い浮かべて、ふんと鼻で苦笑していた。

 ビニールシートの中で煙りまみれになっていたのを思いだしていた。

「あっ、そうだ、テーブルの上の大事な紙があったんだ。いつになっても俺は沙良とその話しができないままだな」

 婚姻届の用紙だ。ずっと裏返してテーブルの上に置いてある。25日の朝にそっとテーブルの上に置いたのだ。

 朝食を食べ終えたあとに昨夜のプロポーズの続きをしようと、揺るがない決意のまま互いの欄に筆を入れようとしていた。

「そうか、それで沙良は戸惑った顔をしていたのか…報道番組に意識がとられて脳はフル回転していたから忘れてしまった。やべっ、すぐに忘れてしまうんだよな。人生最大の選択だってのに──」

 急に背中が冷ややかに感じた。だがあとでいい。謝ってしっかりと向き合って一枚の用紙に誓いの名を並べて書くことにしよう。

「沙良だって待ってくれるはず…、もう十分に待ってくれた…だいじょうぶだろ」

 俺はスマートフォンを手にとった。沙良宛てにメールを打った。

“待っててね”。送信。

 送信したのと同時に青信号になった。入り乱れる多くの人が交差する。

 そのとき俺の脳裏にはぶわっと浮かんだ。まるで映画のように救われたはずの悲劇の光景が残像として映し出された。

 どうやらこれは、この場所にきたらトラウマのように脳裏に浮かぶようだ。

「もう俺だけの記憶だ。誰も知らない俺だけの悲劇の記憶──」軽い足取りで前進した。

 このスクランブル交差点はただすれちがう人びとの通過点となるだろう。

 

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