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青春 / 成長

メイク・アップ・レイディ 第三話 ミランダとサーシャ

   

 
 話は四ヶ月前にさかのぼる。
「あたしに教育をしてください」
 教授を前に言い放ち、ノーマにも宣言した手前、ミランダはどんな課題をだされても引き下がるわけにはいかなかった。
 ノーマは満足そうな笑みを見せ、朝食後、ミランダの、のちの〝勉強部屋〟と呼ばれるようになる二間に向かった。
「あなた、字は書ける?」
 首を振るミランダに、ああ、そうだったわね、そうそう、という諦めとも確認ともとれないみょうな顔つきをしたノーマは、「ちょっと待っていなさい」とスカートをひるがえして出ていくと、自身にあてがわれている部屋から数冊の本を持ってきた。
「まずはアルファベッドから。大丈夫。簡単です」
 というノーマは、本当に、ごく簡単な幼児用初級読本をくれた。aからzまで、大文字、小文字両方並んでいて、appleだのgirlだの英単語が並んでいる。その本とともにノートと万年筆をミランダによこした。
「そのスペルを全部覚えるのよ」
「こらぁ、なんだろ?」
 気が抜くとミランダは訛りが出る。目顔でノーマにきつく叱られると、「これは、なんですか、せんせい」と舌をもつれさせながら、ちゃんと言い直した。
 ミランダが指しているのはノートと万年筆とテキスト。ノーマは意味がとれず、「なにがですの?」とぱちくりした。
「で、すから、……この、三つの物です」
 ミランダはテキスト、ノート、万年筆を順番に指さした。
 ノーマの授業は最初からずっこけた。女史も頭を抱えた。ラングストン教授の〝新しい児童〟は本当に、これっぽっちも、なにも、知らなかった。
「これがお手本。いいですか、こちらに書いてはだめよ。ノート、この青い表紙の紙に書くの。それで、これが書く物。万年筆といいます。古い物だからインクにつけるの――劇場で見たことない?」
「さあ、おら、支配人たちの部屋には入ったことねえんです」
 しばらく考えていたノーマは――まさか、ノートやテキスト、万年筆を見たことがない人間がいるとは思わなかった知識階級の人間は――サーシャを呼びつけると、一通り教えたからあとはよろしく頼むと自身の大学の講義に向かってしまった。
 去り際、「今日のミランダの様子を逐一記しておいて」と言い残して。
 かしこまりましたと頭を下げたはいいが、サーシャはげんなりしていた。
 サーシャはミランダ付きになってから〝不運〟のメイドと呼ばれはじめ(とにかくミランダという芋娘はなにも知らなかったのだから)そのあだ名のとおりになってしまったと天を仰ぎそうになった。それでも長年勤めているメイドたるもの顔には一切出さない。
 ミランダのそばにしずしずと寄ったサーシャは、ミランダのどこを見ているともしれぬ、ぼんやりした顔を見て胸を打たれた。年は近いが、妹や弟を思い出した。サーシャの給金と父の日銭で学校に通っている弟妹たちは、教師にぶたれたり、宿題でわからないことがあると、眼前のミランダのようにぼんやりしていた。教師の理不尽とも言える叱責や暴力の痛みや、目の前の難問という現実を我が事のように感じないで済むからだった。
 ひるがえってみれば、サーシャ自身もそうなのだろう。ときどき、ぼんやりしていると言われる。なにを考えるともなく、ぼんやりと空を見ていることもある。自分たちは境遇が違えど、似たところがあるのかもしれない。
「ミランダ様、お話はお伺いいたしました」
 そうっと驚かさないように告げると、ミランダは、ぼんやりしたままで、すみれ色の目だけがサーシャと、目の前に並べられた品々の間を動いた。
「サーシャさん、あの……」
「ミランダ様はなにもご存じないのですね? ノーマ様からそう伺っているのですが間違いないでしょうか」
「んだ……」
「僭越ながらわたくしが今日、お勉強のお手伝いをすることになりました。よろしくお願いいたします――で、失礼して。立ち上がってくださいませ」
 言われたとおりに立ち上がるミランダに、サーシャは頭の上で両手を合わせ、Aのポーズを取って叫んだ。
「A! はい、続けてくださいませ! A!」
「A!」
「身体も動かす!」
「はい!」
「B!」
 おなかを膨らますような動きをすると、ぶっとミランダが吹き出す。
「B! BabyのB?」
「そうです! C! Cat!」
 猫の真似。ミランダは笑いながらもまじめに付き合う。
 これはロシア帝国から流れてきた幼少期、サーシャが母から教わったアルファベット習得法だった。とにかくこの習得法は跳ねたり飛んだりする。大声を出して歌って踊って、楽しく覚えられる。
 含み笑いがしだいに馬鹿笑いに変わった二人は、部屋中に響き渡る声でZを言い終えると、ひときわ大きく笑った。汗だくだった。
「これを、繰り返して……みてくださいませ。アルファベットは、何度もやれば、ちゃんと覚えられます」
 ふうふう言いながら、頬を赤くしたサーシャは告げた。ミランダは、ノーマが用意していた水差しから勢いよくコップに注ぐと、ぐっとあおり、サーシャに水差しを手渡した。
「いえ、わたくしは結構でございます」
「そんなこと言わねえでくれろ。サーシャさんはおらの大事な友達だ。水ぐらい、友達にはやる」
「……頂戴いたします」
 サーシャが飲んだ水は、奉公に来てから一番美味かった。

 

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