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ミステリー

愛の聖域 前編

   

「そう――そうだね、迷惑でなければ席まで持ってきてくれる?」

 そう言うときっちり珈琲分の代金を置いて、席へと向かっていった。
 道がまた広がった。最低でもあと1回は声をかけるチャンスが残った。
 絹代は慎重に言葉を選び雰囲気を作って、注いだ珈琲を彼の席まで運んでった。
 本当に目と鼻の先程度の距離だったが、長い道のりに感じる。緊張というより、この機会を逃すものかという欲を押さえ込み、さり気なさを演じる。己の高みへの階段を1段登れるかどうかというこの時。自分自身の勝負どころだった。
 平常心で珈琲を彼の前へと置く。お待たせいたしました、ごゆっくり――結局、ありきたりの台詞を一方的に言い、頭を垂れその場を去った。
 これで閉店まで何もなく過ぎるのか、それともアクションがあるか。残りの勤務時間は、時計の秒針が刻む音ですら、しっかりと聞き取れる程、神経が研ぎ澄まされていた。
 ――が結局、閉店数分前に彼は無言で退店。
 絹代の思惑は外れ―――たかと思ったのだが、裏口から出た後、帰路に向かうには店の表を通らなければならない。
 その表の街灯に人の影を見つける。その影があの彼であると知ると、内心『勝った』と確信したのだった。また道が広がる可能性が生まれた、可能性が広がる。

「あのお客様? 何かお忘れ物でも?」

 高鳴る鼓動を抑え、絹代はあくまでも店員としての態度を守る。

「いや――こういうのは始めてだから。なんていうか――」

 真髄に躊躇う彼の言葉態度を黙って待つ。
 何度か顔をしかめ、唇を噛み締めると、意を決したかのように、ただ真っ直ぐに絹代を見つめて言ったのだった。

「お礼、させてくれないか? 君、休みいつ? 良かったら食事でも」

 ベタな誘われ文句ではあったが、一時見ていたドラマのワンシーンにも似たこのシチュエーションに絹代が落ちない訳がなかった。
 高みへと登る野心とは別に、この青年に対し、確実に恋に落ちた瞬間でもあった。

 

-ミステリー

シリーズリンク

愛の聖域<全2話> 第1話第2話

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